思考中毒のそぞろ書き 2019/05/31 ~自由と責任の定義の再考~
書きやすい文章とは
ぼくにとって最も書きやすいのは、考えたいことをテキトーに考えた、そのありのままを文章にしたものである。
ブログの記事としては、三流がいいところだろう。これはほぼ無編集なのだ。
伝えたいこともなければ、読み手の悩みに寄り添ってもいない。ただ自分のためだけに書いているような、そんな文章だ。
まあ、これを気にいる人がいるとすれば、ADHD傾向がある人の思考パターンの研究材料にするぐらいか(笑)
ただ、下記はその乱雑な書きものを思い返してまとめたものだ。研究の分析対象としては失格かもしれん。
そぞろ書きスタート!
先日、興味深い体験をした。新人プログラマーとして、自分の作ったものが報われた喜びを味わったその日のうちに、仕事のイヤなところにぶち当たってしまった。
MQというよくわからない分野のプログラムを作るように言われ、試行錯誤しながらもなんとか完成までこぎつけた。
結合テストにて無事に動作することが確認でき、安堵感を得た。
陳腐な言い回しだが、これまでの苦労が報われるような、そんな思いがあった。
しかし、日本の雇用につきものである「とりあえず仕事があれば上司からよこされる」システムのせいで、その日のうちから別のつまらん仕事を任された。
端的に言えば、仕事における自由度の低さと、作業環境が整っていないところがイヤだった。
ここで仕事における達成感の条件を考えたくなった。いったい今日の仕事のどこが不満なのか、どんな仕事ならよいのか、と。
まず、仕事の自由度の話。どんな仕事をするのか、どこまでを今日中にこなす必要があるのか、どのように仕事を進めればよいのか、といったことは既に決まっており、自分の裁量がない。
もし自分に裁量権があれば、果たしてその仕事をするべきかどうか、から決めることができる。
スケジュール調整も自分でできるから、今日必死で残業するかどうかを意思決定できる。
そして仕事の進め方だ。どんな媒体でやるか、どんな成果物にすべきか、もっと効率の良いやり方はないか。ぼくは効率主義だから、ここが甘いとその仕事を嫌いになりやすい。
たとえばPC画面の大きさ、通信速度、マウスの感度がいいか、キータッチは快適か、便利なソフトがインストールできるか、…PC関係だけでも山ほどあるな。
まあ、ここでは自由と責任の定義の見直しの話をしよう。
一般に社会人には自由が少ない。仕事の概要は自分の管轄外で決まるし、成果物の形も仕事の進め方に対しても自由が行使しづらい。
立場があがることによって、成果物の形や仕事の進め方ぐらいは決められるかもしれない。しかしどんな仕事をすべきか、といって大前提は管轄の外にありそうだ。
もしそこに自由が行使できるのであれば、自分がそこに割くリソースを考慮してもなおやる価値がある仕事に絞ることもできるだろう。
仕事がイヤな理由の一つに、その仕事に意義ないし価値を感じられない、というのがある。そこをクリアできるわけだ。
最近やたらと持ち上げられるフリーランスは、その点で有利であると。
では、望ましい仕事とは責任が少なく、自由度が高い仕事のことだろうか?否。
自分が価値を感じる自分のための仕事の例として、筋トレを考えてみよう。
もらう対価が金ではなく理想の肉体への進歩という違いはあるが、これも広義の仕事と言えるだろう。
自分のためだけにやる筋トレには、責任が伴わない。なぜなら、「責任をいつ放棄しても構わないという自由」があるからだ。
いつでも放棄できる責任は、もはや責任ではない。責任とは強制力なのだ。
いや、責任とは「意味そのもの」でもある。そこに強制力がない、つまり「どうでもいいもの」であれば、そこにやる価値はないからだ。
こう考えると、達成感が得られる「意義のある仕事」には責任が伴わなければならない。「責任をいつ放棄しても構わない自由」はいらないのだ。
もちろん、すべての行動がそうであるべきとは言わない。今回は仕事の話だからね。
ここまで考えてきて、自由の定義とは「ものごとを好きに決められること」ではなく、「責任の所在ならびに割合に対して決定権を持つこと」なのではないか、と思った。
成人し、独立した一個人として行使できる自由というのは、まさにこの「責任の所在ならびに割合に対して決定権を持つ」自由なのではなかろうか。
面白かったフレーズ
そぞろ書きをしていると、面白い発想が出てくることがある。折角なので、そこだけ箇条書きにしてまとめておきたい。
- 自由の定義とは、「責任の所在ならびに割合に対して決定権を持つこと」である。
- 自分のためだけにする行動には、「責任をいつ放棄しても構わないという自由」がある。それはもはや責任ではない。
- 責任とは「強制力」であり「意味そのもの」でもある。そこに強制力がない、つまり「どうでもいいもの」であれば、それをやる価値はないからだ。