虚無との向き合い方・続

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暇ができたら何をしたいか

 残業が続いた時期は、早く帰って自由な時間を持つことを強く望んだ。不自由であるという実感が強かった。
 いざ自由になったとき、君は何をしているのか?
 趣味の麻雀やスプラトゥーンをするのか、趣味と実益を兼ねてプログラムの勉強をするのか、最近あまり会えていない友人との時間を設けるのか。
 どれでもなかった。ぼくは今、一人で過ごすことを選んでいる。ただ浮かび上がる考えと感情とを整理しては、言語化することに打ち込んでいる。

 これは必要なことなのだと、今のぼくは確信をもってそう言える。
 日常を生きていて、意味を持たないと思われるものごとに終始することへの違和感が拭えない。
 ぼくが思い描く最悪の未来の一つは、何も考えずに日々を生き、あるとき人生を振り返ると、そこに何の意味付けもできないことに気づいてしまうことだ。
 その未来が嫌だというだけではなく、そういった感覚に陥る人物を軽蔑すらしている。

余暇がもたらす苦痛

 大学生の夏休みというのは、とても長い。ぼくが最も精神的にまいったのは、ひたすら長い余暇を与えられたときだった。
 あの頃のぼくは、今よりもっと不器用だった。世間一般の常識を自らの意見だと思い込み、理想の生き方をしていない自分を貶すことで身の潔白を示していた。
 できもしないことを理想に掲げ、出来ない自分をただ責めて恥じることで、高潔な人物であると思い込もうとした。

 当時から付き合いのある友人に言わせると、ぼくは相当変わったらしい。良い方向に。
 はたから見ていると心配になるほど、また躁うつ病なのではないかと冗談を飛ばされるぐらいにはテンションの起伏が激しかったのだ。

 ぼくはあるとき、自分がやりたくないことを無理に強いることを止めた。できない自分を受け入れる方向に考え方を変える努力をした。
 この努力もまた不器用そのものであったが、本当にそう思えるようになるまで、自問自答して理論武装を重ねたのだ。

生きにくさとは不器用さである

 マジョリティに属する人物というのは、本音と建て前を実にうまく使い分ける。自分すら騙してしまえるほど、巧みにやってのけるのだ。
 ぼくのような生きにくい人間というのは、本音と建て前とが密接に結合しており、世間一般に求められるような柔軟な振る舞いができない。
 その結合を一部切り離さないことには、振る舞いすら変えることができないのだ。
 だから、ぼくにとって最も手近な手法は、考えることだ。考えて、納得することだ。

 器用な人間は、半ば無自覚のうちに洗脳されることを選んでいるような気もする。
 世間一般の価値観と自らの価値観が呼応している場合は、それを洗脳とは思わないだろう。そこに論理的な正当性があるのかはさておき。
 しかし、不器用な人間は自ら洗脳されることも難しい。その洗脳に直感的な非論理性を嗅ぎつけるや否や、軽蔑の対象となるからだ。

ぼくは成長したのか?

 世の中を回しているものの殆どは、非論理的な理屈だ。なぜなら、人間という生き物自体が様々な論理的破綻をはらんでいる存在だから。
 ゆえにぼくたちは生きづらい、と言ってしまえばそれまでだが、この態度そのものも疑わしいことこの上ない。

 大学時代より、今は格段に生きやすくなった。すすんで生きづらさを摂取したがるマゾヒズムからは脱却した。
 しかし、それは「善いこと」なのだろうか?

 器用な人間はなかば無意識に洗脳されると言ったが、ぼくのこの試行錯誤も、ある種の洗脳であることには変わりない。
 一般に、人間という生き物には、自らの境遇をよりよいものにしたがる傾向がある。
 ぼくが生きやすくなったこと、それはぼくにとって喜ばしいことである。
 しかし、何の根拠があって、それを肯定できるのだろうか?

 論理を以て、ぼくはぼくなりの生きやすさを追求してきた。そして、それは一部実現した。
 ただ、今よりもっと生きにくかったあの頃から、ぼくの中にはある確信があったのだ。
 それは、生きやすさを求めて抗う在り方はどこか正しくない、ということ。

 ふと思ったが、この感覚こそ、ぼくの生きづらさの本質であるかもしれない。
 前の記事でも触れたが、ぼくにとって「正しい」生き方とは、絶望しながら不幸に生きていくことである。
 そんな生き方を選びたいとは思わないし、当時もそうは思っていなかったが、不思議とこの感覚だけは変わらないのだ。

 無理やりたとえるのであれば、多くの人が考える道徳的に正しい在り方に対して、常にそれを裏切っているような、そんな気持ち悪さがふとしたときに自覚されるのだ。
 「自らの生きやすさの前に、論理的正当性はなんら価値を持たない」という根拠を構築し、ぼくはこの実感に抗って生きやすさを築いていった。
 誰に咎められたわけでもなく、ただ自分の中の何かが「そんな生き方は正しくない!」とぼくを裁くのだ。
 ぼくが生きていく以上、この気持ち悪さは常に付きまとう類のものであるだろう。

 つまり、ぼくは自らの外側だけでなく、自らの内側にも理論武装をしていたことになるのだろう。
 自ら弾劾して自ら弁護する、この奇妙な自己完結もまた受け入れがたいものだが、それでもなお、ぼくは生きやすさを選んだということになる。
 言ってしまえばそれだけのことだが、ぼくの中では解決しようがない問題として残り続ける。

 言語化によって少しでも生きやすくなるぼくだが、言語化というのも奇妙さのカタマリではないか、と思う。