気にくわない自分

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みっともないとき

自分が背負った社会的マイナスを嬉々として話したがる自分を見つけるとき。
ぼくは一般的な基準から見て社会的マイナスをいくつか背負っている。それら全てを「どうでもいい」と言えるだけの理論武装はしてきたつもりだ。
しかし、旧友と会って話をするとき、互いの近況を語り合うとき、自らが如何にマイナスの状況にあるかを話してしまいたくなる。
言わずもがな、社会的マイナスを自ら語るのは同情を得るためである。幸いにしてぼくの友人は優しい人ばかりであるので、そこに対して気遣わない人はあまりいないだろうと思われる。

社会的マイナスとは、自ら語るものでは決してなく、他人に聞かれたとて語るべきものではない。
その負荷との折り合いは自らの力で行うべきである。これはただのこだわりに過ぎないが、もしこの点において他者の力を借りるとどうなるか。
それらの負荷に向き合って折り合いをつけて生きていくのが人生のはずだ。決して向き合うのが不可能ではない負荷であれば、そこは一人で解決すべき問題だ。
そこに同情の余地を差し挟むと、一人で戦う力をなくす。その姿勢を放棄したものが戦い抜けるはずもない。

理論武装

ぼくの人生の多くは、ぼくにとって真剣な問題に対してぼく自身の答えを探す時間である、そんな気がしてならない。
そうでもしなければ前に進めないのだ。心に引っかかる諸問題があって、もっと生活的で具体的な問題に対峙する力をなくしてしまうから。

ぼくは一人の時間を好む。その多くを理論武装に使う。
であるならば、その理論武装の価値を自らなげうってしまうことは出来ない。いや、したくない。
その場限りの甘えた考えに身を委ねて、自らのかけた時間を否定したくない。

一見崇高であるように見えて、その実、自らがかけたコストぶんの価値がそこにあることを示したいだけなのかもしれない。
甘えるべきではないと思っているから話さないのではなく、甘えることで自らの選択が誤っていたことを認めたくないから、甘えたくないだけなのかもしれない。