「自己批判する自分」を否定して乗り越える難しさ

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自己批判はダメ

 性格がネガティブよりのぼくは、例にもれず自己批判が大得意だ。
 確かに、なにについてもポジティブに考えなければいけないというのはオカシイ。
 人の自然な着想や感情を否定するのは、ただの人格否定に過ぎないからだ。

 性格がネガティブであるとしても、許容できるものと、許容すべきでないものがある。
 正確には、許容すると生きづらくなってしまうものがある。
 それが自己批判だ。
 自己批判がダメな理由は主に2つある。

悪循環を作り出す

 自己批判することによって、行動することに恐怖を感じやすくなる。
 より行動できずに、自己批判する行為は加速するだけ。

前提がオカシイ

 自己批判をしてしまうということは、その前提に「自分ならこれぐらいできるはずなのに」という発想がある。
 自己批判している人は、その意味で傲慢なのだ。

 つまり、自己批判は構造的に矛盾しているわけだ。
 「オレにはできるはず」という傲慢さと、「成功したいのに成功しないものの見方をしている」という2つの点で。

ネガティブで構わないもの

 ぼくは子供のころから、なにか危険な目にあう、不幸な目に合う、といった妄想をする子供だった。
 親が出かけたときに交通事故で死んだらどうしようとか、包丁やカッターといったものが誤操作で誰かを傷つけはしないかとか。
 でも、これをただ考えるだけなら、いったい何が悪いだろうか。

 変えるべきは「無意識のうちに考えてしまうこと」ではなく、「考えたことをいかに解釈するか」である。
 現実がすべて自分に牙をむいているように思うのは、ただの被害妄想だ。正当性もなければメリットもない。
 そういった、自分にとって損するような考え方をしていないかを自分に問いかけ、少しずつ更新していくことが大事なのだ。

認識を変えることの難しさ

 もちろん見方というのは一朝一夕では変わらない。
 心理学用語でリフレーミングと呼ぶらしい。意味はそのまま、ものごとの意味を捉えなおすことだ。
 ある分野では irrational belief とも呼ぶ。「不適切な信念」と。
 ちなみに日本語で言う「信念」と「belief」は正確には意味が異なる。つまり「捉え方」のことだと思えば問題はない。

 見方というのは、こしゃくなことに自分の短期的なメリットと結びついていることがよくある。
 否定的な見方をすれば、自分は本当は出来るやつなんだ思うことができるとか。
 「嫌われる勇気」に登場した青年は、アドラー心理学のいうことはあまりにも厳しすぎるといった。
 自分が無意識のうちに享受しているこしゃくなメリットを自覚し、そんな自分は否定していくことで根本的な解決ができるようになる。

 苫野氏が「世界は欲望の色を帯びている」と言ったように、人間にとっての現実とは、欲望によって作られる。
 欲望があるから、人はなにかを解釈し、それに言葉をつける。

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 自己批判を乗り越えるとは、高度に人間的な取り組みなのだ。思ってしまう自分を自覚するだけでなく、その裏にある意図までを含めて自覚しなければならない。
 だから、自己批判を乗り越えるには時間がかかる。