”パクツイ批判行為”の違和感

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違和感は大きく2つに分かれる。

  1. 批判自体に何のメリットもないこと
  2. ただの自己欺瞞であること

パクツイ批判行為のデメリット

疑ってかかることのコスト

 バズっているツイートがあるとして、批判している人たちは、それがパクツイであることをどうやって特定するのだろうか。
 彼らは「パクツイの可能性がありそうなツイート」を見つけては、わざわざそれを調査するのだろうか。なんのために?
 もしも「1秒でパクツイかどうかを判定できるツール」があるとしても、調査に必要な時間的コストや意志力コストを払うだけの価値はあるのだろうか?

ネガティブな見方を習慣づける

 パクツイを疑ってかかるということは、その発信者がなんらかの "ズル" をしているかどうかを考える習慣をつける練習をしていることを意味する。
 いったい、なんのために?

パクツイ批判は自己欺瞞にすぎない

 パクツイ批判に限った話ではないが、人間には「"世間で批判されうるもの" を発見すると、当事者を痛めつけたくなる」傾向がある。
 もしパクツイ批判行為に「正義」らしきものがあるとしたら、どんなものになるだろうか?
 「パクることは問答無用でダメ」という発想は論外だ。真似する行為の否定が行きつくのは、他人から学ぶ行為そのものの否定だ。

 パクツイ批判行為を自覚的に実行している人は、それが自分の不平不満を解消しないという現実から目を背けている。
 パクツイ批判をつづけるということば、自分の本音をムシする練習を積んでいることになるのだ。

 価値観の多様さが(形式的にでも)市民権を得ている現代社会において、自分の本音ほど指針にすべきものはない。
 自己欺瞞は価値観を歪ませ、自分の本音をどんどん見えなくしてしまう。ゆえに自己欺瞞は不幸をもたらす。今すぐにでもやめるべきだ。