将来の自分のために自分ごとを語る
発信の意味とは
コンテンツとは自分の人生に検索性を持たせるもの(2019年2月15日放送)/ Voicy - 今日を彩るボイスメディア
コンテンツにとって大事なことは「将来の自分から見て理解できるもの」であることだという。
想起したのは、小学5,6年生のころに大学ノートに毎日なにかをつづっていたこと。
もしあのときのノートが見つかるのであれば、恥ずかしい気もするが読んでみたい。
そこまで遡らなくても、大学生時代に考えたことをつづったメモをEvernoteで読むことができる。
「おっ、自分なかなかいいこと言ってるな」とか「このときはこんなことで悩んでたのか」など、
何かしら得るものがある、そんな予感がする。
あらためてブログを続ける意味
そんな経緯もあり、ブログという媒体で発信を続けていく理由をまた一つ見つけた。
正直このブログは、自分以外の人が読むことをほとんど想定していない。単に不親切なのだ。
やや難解な用語を使いたいときに遠慮なく使い、そこに対して踏み込んだ解説をしていない。
たとえば「事象」という言葉には、それが人間によって認識されることで存在しうるもの、という前提が含まれていたりする。
認識というのは「網の目」のようなものであり、網に引っかからないものはスルーされるし、網に引っかかるものしかそこには存在していないように見える。
具体例でいうと、アイヌ民族にとって「雪」には30種類以上もの言葉があるという。ぼくたちはせいぜい「細雪」「豪雪」「粉雪」ぐらいで十分だろう。
ぼくたちにとってただの「雪」でしかなくても、アイヌ民族にとっては数々の雪が目の前に存在しているように映っているのかもしれない。
一方で、その存在を証明する手段が全くないものについても、人間はそのものを認識できる。
たとえば超能力、幻覚、神の存在、など。
いま適当にならべた言葉についても、わからないひとに説明するという意図ではなく、
ただ自分が思いついたものを理解している範囲で語っているに過ぎない。
ぼくは誰かのために語れるのか
発信するということは、意図を含む。必然、なんらかの虚偽を含む。発信で大切なのは、内容よりも発信者としての立場である。
正直に言うと、まだぼくは何者でもないと思っている。世間一般に認められるほどの一般性がある「何者か」ではないだろう。
発信することで何者かになる、という理屈もわかる。だが、日々の発信を方向付けるような「何者であるのか」については、
ほぼ白紙のようなものだと思う。
ぼくがもし何者かになったのならば、そのとき自然と語るべきことが決まってくるし、語られる意味も定まるだろう。
何者でもない状況だからこそ、自分のリアルを語る、というよりただ吐き出していくこと、に意味があるのではないか。