映画「マスカレード・ホテル」感想
最初に言っておきますが、ネタバレ全開です。
ネタバレされたくない方は視聴後に読まれることをオススメします。
また、原作の「マスカレード・ホテル」を読んでいない状態で映画の感想を言っています。原作ではこうだったよ、など教えて下さると嬉しいです。
あらすじ
主人公(キムタク)は刑事。ヒロイン(長澤まさみ)はホテルのフロント。
ホテルで殺人事件が起こるとふんだ警察関係者によって、主人公はホテルのフロントとして働きながら潜入捜査することになる。
一方ヒロインは、そんな主人公がホテルのフロントとして振る舞えるように指導する立場となる。
ホテルのフロントらしからぬ立ち居振る舞いの主人公に対して、ヒロインは最初、否定的な態度をとる。
しかし、ホテルの客が起こした面倒な事態のひとつを、主人公が機転を利かせて対処したことにより、ヒロインは少しずつ主人公を信頼するようになる。
最終的には、殺人事件のターゲットがヒロインである可能性に気づいた主人公によって、ヒロインのピンチに主人公が駆けつけ事件を未然に防いだ、という展開が待っている。
対比は適切だったか?
映画内で主人公が「刑事は疑うのが仕事なんでね」「俺にはわからないですよ、なんでそんなに人を信じられるのか 」などと発言しているところからも、
二人を対比させているのは、人を信じるのか疑うのか、という点にあると言えるだろう。
ホテルの厄介な客が起こした様々な事件に対して、信じるべきか疑うべきか、という葛藤が巻き起こり、ときには信頼、ときには疑念がよい結果をもたらす...と思われたが。
結論から言うと、「人を信じる」立場が事態を解決に導いたことはほぼなかったと言ってよい。
ホテルの厄介な客が起こした事件を時系列で見ていこう。
一人目、前回宿泊した際に二万円のバスローブを盗んだ男性客。
ホテルの清掃員からバスローブが紛失していると報告を受けたヒロインは、男性客に対して「お荷物にバスローブがまぎれている可能性がございます」と、荷物の検査をさせていただくように要求する。
その男性客が難癖をつけられたとクレームを言うつもりであることを察知した主人公は、ヒロインを制止して男性客をそのまま帰らせる。
ちなみに、この事件をきっかけに、ヒロインは主人公の評価をあらためることになるわけだが。
さて、この事件では主人公が「疑う立場」を活かしたようにも見える。しかし、ヒロインがその男性客を「信じる立場」であるとは思いにくい。
ほかの事件でも同様に、ヒロインがお客様を「信じる」ことで事態が好転した、という展開はほぼないのだ。
二人目、目が見えないフリをしている老婆。
主人公は、目が見えないフリをしていることをすぐに見抜く。ヒロインは、それが演技だとわかっていても、何かしら事情があるのだろうと信じて、目が見えないフリに付き合う。
老婆がチェックアウトする段階になって、老婆が目が見えないフリをしていたことを白状し、その演技に付き合ってくれたヒロインに謝罪する。
ここではヒロインの「信じる立場」が活きたシーン...かと思いきや、むしろ逆である。
実はこの老婆こそ事件の真犯人。こともあろうに、物語のラストではヒロインが人を信じぬくことを利用して殺人に及ぼうとする。
ヒロインの「信じる立場」の悪い面が目立つ結果になってしまっている、そんな印象がぬぐえない。
三人目、主人公に対して言いがかりをつけてくる中年男性客。
この事件で主人公は、ホテルのフロントとして理不尽な客にオトナの対応をする。それによってなんとか事態を切り抜ける訳だが、それは主人公が目の前の理不尽な男性客を信じた訳では無い。
四人目、ストーカーの被害に遭っているという女性客。詳細は割愛する。
要するに、ホテルの宿泊客たちは主人公とヒロインの対比をうまく描けていない、そんな印象が残った。
問題点はメディアの違い
今回の問題は、要するに「詰め込みすぎ」にあると思われる。
物語では、人を信じる立場であるヒロイン、人を疑う立場である主人公の二人が交差する。
その交差をみちびくための厄介な宿泊者たち、そして連続殺人事件が具体的な題材になるわけだ。
ただ、それぞれの要素を丁寧に描くには、二時間は短すぎるのではなかろうか。
原作を読んでいないので詳細は知らないが、映画の中には、描写された理由がよくわからないイベントがいくつもある。
披露宴の準備をする女性に対して、女装して紙袋からあたかも武器を取り出しているかのような仕草を見せた男性客。
彼は紙(連続殺人犯の残しているもの)を手渡しに来ただけだ、と言っているが、なぜ女装しているのか、披露宴の準備をしている花嫁とはどんな関係なのか。
後半、真犯人の正体に迫るまでの展開がやや急であった印象がある。正直に言うと、あまり覚えていない。
作中で描写されるイベントには、すべて何かしらの意味があるはずである。それが伏線となってつながりを見せたとき、言葉にしがたい興奮を覚えるものだ。
なぜこうなったのだろう?と疑問に思えるものは、描写対象の選択を誤ったか、描写不足か、のどちらかに由来する。
ただし原作を読んでないため、この映画の違和感は描写不足が原因ではないだろうかと思っただけなのだが...。
ほかに気になったポイント
タイトルとラストシーン
マスカレード、つまり仮面舞踏会。なぜこのタイトルがついたのか?
ホテルには厄介な客もくることから、仮面の裏に隠した本音がある、という見方ができるからだろうか。
個人の感想だが、人間は二面性をもつのが普通の生き物であり、ホテルの客や関係者がとくべつ二面性がつよいキャラクターであるとは考えにくい。
そして、タイトルを意識せざるを得ないラストシーン。
主人公が事件を解決した後にホテルを訪れると、普通のホテルの様子がとつぜん仮面舞踏会に変わる。まさにマスカレード・ホテルだ。
しかし、なぜ主人公はホテルに入ったときにマスカレードを想起したのだろう?
ぼくの目には、そこに至るまでの伏線は作中にほとんどなかったように見えたのだが...。
ヒロインの残した伏線
作中では、ヒロインが部屋の文鎮の向きを正すシーンが繰り返される。
これはラストシーンで、主人公がヒロインのピンチにかけつけるためのヒントとなっている。楽しい仕掛けだった。
おわりに――素直であれ
やや厳しい感想ばかりになってしまったが、作品をみたときの素直な感情を言葉にしてみた。
対比とか伏線とかいってきたが、それも結局は読者を楽しませる仕掛けにすぎない。作品に感じる良さや違和感を説明するために、対比という概念が引用されるに過ぎない。
何が言いたいのかというと、実感がないのに対比や伏線といったコトバを用いるのは危険だということだ。