厳しい意見に反発しすぎてない?
違和感のある反論
きっかけになったのはこのツイート。
遅刻癖のある奴で「まあ私遅刻キャラだから(´>ω∂`)」とか思ってる奴は全員読め。あと周りから何も言われてなくても大概の人間は静かに腹立ててるから勘違いすんな。全く許されてねぇからな。
— 紡 (@tsumugugumu) 2019年1月26日
遅刻癖のある奴がやってはいけないこと - 人生なるようになる https://t.co/zw5ndmclBT
投稿者の方は丁寧に対応してくださっているが、この方に対して厳しい意見が向けられる現状、違和感ありませんか?
投稿者の方に向けられた反論を見てみると、要するに「遅刻してもしょうがない人の気持ちも考えてください」である。
この反論に感じるキモチ悪さを言語化してみたくなった。
結論から言ってしまうと、それは相手の意見を曲解し、発言者を倫理観に欠けるヤツだとして不等に糾弾しているからだ。
あたかも正義のような顔をするイチャモン
たとえば臨月の妊婦さんがいるとしよう。
彼女に産休を取らせず、フルタイムで終電まで働かせる会社があるなら、非難轟々になるだろう。
今の社会は、いわゆる弱者に対して気遣うのが当たり前になっている。
言い換えれば、気遣わない者は厳しく糾弾される。
「なんらかの事情でそれができない人がいるかもしれないだろ!」という意見は、
発言者を「社会的弱者を気遣わないサイテーなヤツ」に貶める発言なのだ。
正当な理由なのか、言い訳なのか
この発言には、ある危うさも秘められている。
それは、言い訳したくなる弱さを助長しかねないことだ。
唐突だが、ぼくはADHDとアスペルガー症候群を併発している。
症状はだいぶ軽めなのだが、それなりに苦労もある。
たとえば、朝起きるのも、すぐに寝付くのも、やるべきことに取り組むのも、物忘れに気をつけるのも、いろんなことが苦手である。
しかし、会社に遅刻しないように気をつけることが「絶対に出来ない」かというと、NOである。
(まぁ、条件が厳しすぎたら「絶対に出来ない」になるのだが)
忘れ物には対策できるし、遅刻しないために生活リズムを整えることも出来る。
正直、「正当な理由」と「言い訳」の境目は定義できない。
たとえば、一口にADHDといっても、比較的軽めの症状から、どうしようもないほど重い症状まである。
傍目には誰も気づかないぐらい症状が軽い人が
「いや〜ぼくADHDなんで、それはできないんです」
と言っても、誰もそれを認める気にならないだろう。
つまり、「正当な理由」と見なされるか、「言い訳」と見なされるかは、程度問題に過ぎないのだ。
言い方を換えれば「正当な理由」なんて存在しない、ぜんぶ言い訳だろう、という見方もできる。それは正しいと思う。
「正当な理由」と「言い訳」に本質的な差がない以上、
言い訳をしたくなる誘惑に負けないように気をつける必要があるわけだ。
社会的弱者の属性を使ってもいいとき
ここまで言ってきたが、「ぼくは〜なので、無理なんです」という意見表明がすべて認められないわけではない。
どんな人にも「これ以上は無理」というラインがある。
先ほど言ったように、「正当な理由」と「言い訳」の差は程度問題に過ぎない。結局は、周りの人がそれを認めるか認めないか、で決まる。
「誰もが許されるべきライン」というのは、世の中に流布している大多数の意見によって決まってくる。
スパルタという帝国では「戦えない者は皆殺し」がルールだったとか。今では考えられないが、道徳なんて時代と環境で決まる曖昧なものなのである。
「誰もが許されるべき状況」が定義できない以上、「正当な理由」とされる「社会的弱者の属性という武器」をふるってもいいのは、
自分ないし身内といった具体的な人物がその身を守るときだけなのだ。
ここで注意して欲しいのは、SNSで大衆に向けられた発言は、自分たちに迫る危険ではない、ということだ。
身を守るべき危険というのは、その当人に向かって明確に意見表明がされた場合に限る。
やや厳しめな意見が目に留まると、あたかも自分や身内が攻撃されたような気持ちになるのはわかる。
だが、そこで反論するのは待ってほしい。その人はあくまで、言い訳をしている誰かに向かって厳しい意見を言っているだけなのだ。それは大抵の場合、あなたたちのことではない。
尊敬している会社の先輩が「そうじゃない人だっているんです」っていう反論は卑怯だ、と言ったのを思い出した。
— やの@哲学エンジニア (@KNDPG) 2019年1月28日
遅刻癖が許されて然るべき人が糾弾されているとき以外に「もしかしたら事情があるのかもしれないだろ」というのは、善意に見せかけた意見の押し売り、ただの弾圧になっているのでは。 https://t.co/mZqhKShtRt