渋谷ハロウィン事件の再考

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真に問題なのは何か?

渋谷のハロウィン、仮装に身を包んだ集団の行動が問題になった。
理性の皮が剥がれたかのように、破壊や暴力、性衝動すら肯定されるような雰囲気だったとか。

しかし、問題にすべきは渋谷で騒いでいた当人たちではない。彼らをあげつらうぼくらにこそ問題の核心はある。

彼らを否定するだけの正当性はあるのか?ー1、当たり前すぎる「汚い」感情

ぼくらは汚いとされる感情を「持ちようがない」のか?
たとえば、目の前で恋人や肉親が無残に殺されたとする。
そのときに激情に任せて相手をなぶり殺しにしてはならない、という考えは正しいのだろうか?納得できるものだろうか?

否。傷つけられた人が大切であればあるほど、復讐の念は強く大きくなる。相手をもっとひどい目にあわせてやらなければ気が済まない、というのは至って自然な感情だ。

また、自分が直接復讐を実行しないにせよ、悪人が惨たらしい最期を遂げたとき、胸がすく思いにならない人間がいるだろうか?

ぼくら人間というのは、一般に肯定されない感情を当然のように抱くし、場合によってはその感情に逆らわず行動することもいとわない生き物なのではないか。

であれば、「ぼくらはあんなことはしない」と、彼らとの違いを強調するだけの正当性は、果たしてどこにあるのだろうか?

彼らを否定する正当性はあるのか?ー2、境遇における運の割合

渋谷で実際に騒いでいないぼくたちが、彼らと同じ境遇にいなかったのは何故なのだろうか?
それは僕たちがそれを選んだからだろうか?
ぼくにはそうは思えない。今の自分があるのは、自分の選択だけではなく、生まれもったもの、たまたま与えられたもの、そういった要素がふんだんに含まれているのではないか。

別の例を挙げよう。
たとえば、中国人は立ち入り禁止だが、日本人は歓迎される観光地があるとする。
そのとき、一部の人は「中国人は粗野で、日本人は礼儀正しい」という命題を持ち出すかもしれない。
この命題は、自らの立場を肯定したいあまり、肯定しがたい振る舞いをする日本人がいるという当たり前の事実を見ないふりをしている態度でしかない。

批判対象と自分とを別のカテゴリに属する存在であるとみなす、その根拠は何だろうか?
その根拠とやらは、他者否定によって自らの立場を高めんとする自己中心的な思い込みに過ぎないのではないだろうか?
そう考えると、彼らを批判するに足る正当性が果たして僕たちにあるのか、疑わしいと言わざるを得ない。

彼らを否定するメリットはあるのか?

渋谷で騒いでいた当人たちの心情は、僕たちにも理解しうる当たり前の感情である。
では、僕たちは、そういった感情を全く認めることなく、押し殺して生きていかねばならないのだろうか?
そういった感情を覚えること自体が罪であるのだろうか?

ぼくは、そうは思わないし、そう思いたくない。
もし、なんらかの感情を抱くだけで罪深いとされるのであれば、僕たちは大罪人の集まりでしかない。
そして、その見方はひどく生きづらい。思うだけでも感じるだけでもダメなのだ。
場合によっては、日常に浮かぶモヤモヤの全てが、自らを否定する凶器になるのだ。

あくまで僕は、僕自身の生きやすさのために、人間の汚い側面を肯定することを選ぶ。
人妻や友人の夫、はたまた同性や子ども相手に性欲を覚えたとして、それは全て認められるべきではないのだろうか?
思うだけなら罪ではない。そういう見方をしたい。

「しかし、彼らは実際に行動にうつしたではないか」と思う人もいるかもしれない。
もちろん、行動にうつすこと自体は罪だ。
人を殺したくなるのは全く問題ないが、実際に人を殺してしまっては、やはり問題があるのだ。

では、なぜ行動にうつしてしまった彼らを批判すべきではないのか。
それは、多くの人が彼らの行動そのものではなく、彼らの内面を否定しているからなのだ。
否定して良いのは行動のみなのだ。

僕たちはどうすべきか

まず、自らがそういった行動をしないように心がけること。当たり前すぎて言及する必要すらないかもしれない。
大事なのは次だ。行動の原因を、その人の内面に求めないことだ。

渋谷のハロウィンで起こった出来事は、決して肯定できるものではない。
しかし、それは行動した当人の内面に問題があるとして片付けてしまうのではなく、
どう工夫すれば今回のような事態を招かずにイベントが実施できるか、を考えるべきなのだ。