たいていの人は幸福である
本当に幸福になれないのか?
幸福は「条件」では定義できない,ということを納得することは大事なことだ。
先日,ある人に「幸せそう」と言われてから,「幸福になるための思考訓練」は得意なのでは,と思うようになった。
毎日つらそうに生きている多くの人は,理想を見すぎるあまり,現状を肯定することを忘れているんじゃないかと思う。
「嫌われる勇気」の岸見流アドラー心理学でも言及されているが,
現状を「目的を達成できていない無意味な時期」と考えると,今を強く否定していることになる。
達成したい何かを見据えて生きることはよいことだが,理想通りに生きられていない自分を否定することは,ただ自ら不幸になっているようなものである。
不幸になる「条件」を考えてみる
ぼくが思考訓練に引用した人物は複数いる。思考訓練というよりは,気になって仕方がなかったというのが実情だが。
まず,アウシュビッツに連行されたが生き抜いたフランクル氏である。
劣悪な環境でも,精神のあり方によって「これは与えられた試練である」と思うことで,生き抜くことが可能であるという可能性を示された。
次にヘレン・ケラーである。
生まれてから目が見えず耳も聞こえず,とある家庭教師によって人間性を獲得するに至った彼女。
もし自分の生活から光が失われたらどうなるだろうか。マンガも読めない,綺麗な景色をみることもできない。
試しに,目をつぶって見知った道を歩いてみるといい。車が来ない道だったとしても,ぶつかることが,見えない段差によって転ぶことがいかに恐ろしいか。階段一つ登るのに何分かかってしまうんだろうか。
そして,乙武洋匡氏。
小学生の頃に彼を知って,ぼくが彼であったら幸福に生きていけるだろうかを問うた。おそらく無理だろうな,と思ったし,
今なんらかの事故で四肢を失ったとしたら,幸福に生きることはだいぶ難しいだろうと思わざるを得ない。
そう,人間は様々な「不利」な条件があったとしても,幸せに生きられるらしいのだ。
自分より不幸そうな人なんていくらでもいるが,そのうち幸福そうに生きている人は沢山いるのだ。
ダメ押しとして,人間のみている現実は,原理上,主観的なものでしかないということだ。
幸福感というものも,結局主観でしかない。心持ちでいくらでも変えられるはずなのだ。
幸福らしい自分のリアル
せっかくなので自分のステータスをさらしてみる。まずはネガテイブ面から。
- ADHDとアスペルガーの併発(ただし両方とも軽度)
- 特発性過眠症(つまらないときに必ず眠くなる,薬ナシでは抗えない)
- 全身アトピー
- 大学院中退
- 彼女いない歴 = 年齢
- 職業:SES(悪評高い)
- 年収:230万ぐらい
- 電話で人と話すとき,店員に注文するとき,ほぼ必ずどもる(改善が難しい)
- 自分に自信がない(だいぶ改善されてきた)
次はポジティブな面。
- 早稲田大学卒
- IQ:医学生並み(WAIS-Ⅲという認知テストで測定)
- 家族,友人,職場,全員いい人ばかり
- プログラミングは人より得意
- よく通る声をしている
- 一人でも気にならない(というか一人でいるのが好き)
- ゲームがやや得意(Splatoon2 でウデマエXなので,上位15%ぐらいには入りそう)
- スタイル良し
ぼくのステータスが「正直自分よりは不幸そうだなコイツ」と思ってもらえたら幸いだ。
もしそうであれば,自分は幸福なのではないか,と考えるためのきっかけになるわけだから。
おわりに
ぼくが一番楽しんでいる「幸福」は、「バーテンダー」9巻に書いてあった。
俺の尊敬するヨット乗りは 人間の幸せは 4つしかないって言うんだ
"深く感じて自由に考える"
"単純に楽しむ" "人から求められる"
そして "命をかける"
ぼくにとって、"深く感じて自由に考える" ことが最大の幸福になっている。
これが満たされていないと、衣食住や人間関係に問題がなくても満足できる人生にはなれないだろう。
譲れない個人的なこだわりを見つけられると、「〇〇が達成できない人生に意味はない」という考えから抜け出しやすくなるのではなかろうか。