ぼくが考察魔である理由

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必要だから考える

 楽しいから考えることもあるが、ぼくが主に考えごとをするのは、考える必要に迫られているからである。

 ぼくはメンタルが弱い。居づらい空気を感じたり、自分が貢献できていなかったり、会話でどもったりするとすぐにダメージを受ける。
 しかし、現実ではいくら精神的に不安定でも、起きて飯を食べて身体のケアをして仕事をする必要がある。
 正直、ぼくにはそれがとても面倒くさい。働くことより、自分が考えざるを得ないことが目の前にあるのに。
 だから、そういった精神的ダメージを軽減する工夫が必要だ。

 そして、人間には最強の武器がある。考えることである。
 かんがえることで、その精神的ダメージを否定するのだ。
 「上司に嫌われたからってなんだ、それはぼくの問題ではない」とか。
 ちなみにこの発想はアドラー心理学から得たもの。「嫌われる勇気」、ぜひ読んでみて。

認識を変えることが最強の処世訓

 人間の幸せの正体とは何か。それは当人がそう感じるかどうかである。
 「嫌われる勇気」でも散々説かれていることだが、何かいいものがあればすなわち幸福になれるわけではない。
 幸せに必要なのは「足るを知る」ことだ、という言葉もある。厳密に必要なのはモノや状況ではなく、人間の認識なのだ。

 だが、幸福を実感するために「俺は幸福なんや!」と思い込むのは無理がある。それはただの現実逃避だ。
 最終的に必要なのは本心からそう思うことであり、本心からそう思うために手っ取り早いのが現実的に行動することである。
 

認識を変えるための哲学

 ぼくは高校生のころから哲学の本を読み始めた。生きる意味を探すことにかこつけて、やるべきことを避けていたから。
 誰にでも適用しうる生きる意味なんてないことが理解できたのもそうだが、哲学の最大のメリットは、
 ふとしたときに湧き出てくる思考と感情を制御する能力になることではなかろうか。

 たとえば怒りに踊らされないことを目的とした「anger management」という概念がある。
 アプローチの名称に心理学とついていようが、哲学とついていようが、目的は同じ。
 外部から受ける刺激が呼び起こす思考と感情を一段上から見下ろして、それをうまく制御することだ。

 訓練していない人間は、イヤなことがあると怒りを覚える。
 経験を積めば笑って流せるようなことでも、子どものころはその都度怒りを覚えていたものだ。
 同級生にからかわれるといった下らないことから、一見理不尽なできごとまで、訓練によって態勢をつけることができる。

 言い換えれば、態勢をつけないと生きていきにくいのだ。
 ぼくはADHDとアスペルガー症候群の特徴を併せ持っていることもあって、自己管理がとても苦手だ。
 自分を管理するためには、冷静に状況を見なければならない。そんな余裕はないのに。
 しかし、外部刺激を減らすことは難しい。よほどよい環境を自分で選ぶか、自分で作るか、運に恵まれるかすれば、刺激自体を変えることはできるだろう。
 だから、刺激に対処する術を学ぶ必要がある。ぼくにはまだまだたくさんの課題がある。すぐ落ち込んでしまうし、すぐムスッとしてしまう。

 そんなぼくにとって、哲学とは趣味であり、生きる知恵でもある。
 高校時代、哲学って無駄じゃないか、と言った友人の発言が忘れられない。
 もし、世間一般の価値に照らし合わせて、常に勝者でいられるのなら、常に前向きでいられるのなら、哲学は不要なのかもしれない。
 まあ、哲学とはもともと、「問いそのものが気になる人」によって紡がれてきたのであって、
 哲学をただの趣味として、生きる知恵として活用するために哲学を好むぼくのような人間は、本当の哲学者ではないから、ぼくが言うのもおこがましい気もするけれども。

 哲学とは実学である、というのがぼくの持論だ。

おわりに

 非常に手を抜いた記事を作った。これがぼくにとって、いずれ何かをもたらすと信じている。
 とりあえず、駄文を連ねていくことにした。ただ継続することだけが今の目標だから。
 こういったテキトーに書いたものは、思考がとっちらかるぼくには相性がいい。