「マーケティング=卑怯」という考えはやめたほうがいい

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 マーケティングとは、いかにして購買行動を誘発するか、である。
 それは必然的に、人間の習性を逆手にとることになる。
 「人間の習性」というだけあって、それはわかっていても抗えるものではない。
 だから、それは「卑怯」に見えるのだ。例を挙げてみよう。

・世界は競争原理で成り立っている → マーケティングなどの「人間をメタ的に観察する行為」が「効果を発揮する」のは当たり前 → それを受け容れられない人が文句を言うのは「世界のルールに対してワガママを言う」行為でしかなく、何も生まない。
→そこから「文句を言うのがいかに損なのか」に話をふくらませるもよし。
→「世界が競争原理で成り立っている」ことをもっと詳しく説明するも良し
・マーケティングが効果があるというのは、その現実に納得しがたいけど、でもそれを真実だとした時、どう振る舞うべきか?
→発信者としての心得 → 言葉のすみずみに気を遣うこと。無責任な発言をしていないかをチェックし、言葉を選ぶこと。
しかし、何も言わないのは発信している意味が無いので、自分の拠って立つ場所を明言し、どのような意味で主張しているのか、心を配ること。
→ 消費者としての心得 → 有り体にいえば、情報を疑ってかかること。本当に自分はそれがやりたいのか?それによって達成されるものごとについて、それだけのリソースをさく価値があるのかを考えてみること。発信者が提示する理屈にスジが通っているかどうかを考えてみること。
また、感情的に反応して批判しないこと。批判するときこそ相手の理屈を理解するために心を砕く必要がある。まず自分が誤った理解をしていないか、また発信者にとってタメになる批判ができているかを考えること。

課題となるのは「現実を受けいれること」になるのだろうか。一般に、現実を受け入れたくない人は「不誠実だ」と言うことが多い。その発言をしているようであれば要注意だ。
なんで、そう思えるのだろう。不誠実を本当に批判するのであれば、立場は二つしかない。その人に近しい人が、その人自身を心配して助言するか、もしくは近しくない人が黙って距離を置くか。

●ここら辺の理屈はニーチェの主張になってくるかな。道徳っていうものを使って批判してくる人がいる、というあたり。






あなたはどのプランを選ぶ?

 今回は下の本から、おもしろい例を引用する。

予想どおりに不合理: 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

予想どおりに不合理: 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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 さて、あなたはどのプランを選ぶか?
 大半の人は、プラン3を選んだのではないだろうか。
 余談だが、プラン1(Web版)が最適解だと思ったぼくは少数派らしい。
 ぼくの目からすれば、印刷版が付いてくるだけで66ドルも値段が上がるとか、ずいぶんと強気な商売だな、という感じだが・・・。

 話をもどそう。
 なぜプラン3を選ぶ人が多いのか。筆者がわかりやすく解説してくれている。

人間は、ものごとを絶対的な基準で決めることはまずない。ものごとの価値を教えてくれる体内計などは備わっていないのだ。
ほかのものとの相対的な優劣に着目して、そこから価値を判断する。
(中略)
大半の人は、自分の求めているものが何かわからずにいて、状況とからめて見たときにはじめてそれがなんなのかを知る。
たとえば、自分がどんな競技用自転車を欲しいのか、ツール・ド・フランスの優勝者があるモデルに乗ってギアを切りかえている姿を見てはじめてわかる。
自分がどんな生き方をしたいのかさえ、親戚なり友人なりの生き方がまさに自分のとるべき道だと思えてはじめてわかる。すべてが相対的、これにつきる。

 インフルエンサーが声高に主張する「金と時間に余裕がある生活」にゾッコンな自分としては、耳が痛い限りである。

 別の例を挙げてみよう。「世界一受けたい授業」にて「マインドフルダイエット」なるものが紹介されていた。
 原理はきわめて単純。「なんとなく食べる」行動をやめるだけだ。
 要するに、食べ過ぎによって太る人は、じつは体がそこまで欲していないのに、ついつい食べてしまう人たちであるという前提のもと、
 何かを食べるまえに「ぼくは本当にこれが食べたいのか?」と、立ち止まってかんがえてみる、というダイエットだ。

 何が言いたいのかというと、人間はけっこうおバカさんであるということだ。
 人間は、短期的なメリットばかりに注目する。自分がほんとうは何がしたいのか、あまり考えることなく行動している。
 そのくせ、多くの人は考えている気になって、不要なことに時間と金とエネルギーを費やしている。

 そういう人たちをバカにしているわけではなく、そもそも人間というのは長期的な視野をもつことが苦手だ、というだけのことだ。
 そして、こういった人間の特徴をうまく突いているのが、マーケティングだというわけだ。

 このような例は、枚挙にいとまがない。
 たとえば、Twitterで流れてくる出会い系のCMを見てみるといい。男性向けのCMで出てくるのは、なぜか水着姿の女性ばかり。
 要するに、薄着の女性が親しげに話しかけてくる映像を見せることで、かわいい子とセックスできるかも、という男性の期待をあおっているわけだ。

「マーケティング=卑怯」だという考えはくだらない

 人間の性質を利用するのがズルいのだとしたら、世の中の商品はどうあるべきか?
 お菓子を食べる人の健康を損ねないように、パッケージにはタバコのような警告を貼るべきなのか?
 自社のサービスを説明するとき「うちのサービスなんて大したもんじゃありませんがね・・・へへ・・・」と控えめなCMを流すか?

 そんなわけはない。
 結局、マーケティングが卑怯にみえる人間は、世の中が競争原理によって動いていることを認めたくないだけなのだ。
 そもそも、人間という種族がこれだけ発展してきたのは何故か?それは、他の生物との競争に勝ってきたからである。
 人間だけが、世界をメタ的に見ることを可能にしているわけだ。
 よって、マーケティングなどに見られる「ハック」する行為は、きわめて人間的な行為なのだ。

幸福に生きるために

 正直に言うと、マーケティングが卑怯だと思うことについて、ぼくは理解するだけでなく、大いに共感している。
 世界にあふれるくだらないサービス、それに抗えない人間、そういったものを見て嘆くのは、誰だって同じではないか。

 だが、世界を分析して、それをハックすることを疎んでいては、多くの人の目標とする所である「幸せ」は得にくいのだ。
 なぜなら、人間の認識が相対的であるというのは、幸せというものにおいても適用されるからだ。

 もちろん、全てにおいて勝っていなければその人は幸福でない、とは思わない。
 なにか、本当に欲しくないものであれば、それを持っている人間に嫉妬することはないだろう。
 しかし、欲しくないものを理解するまでには、いや、むしろ本当に欲しくないものを理解するためには、一度手に入れる必要があるのだ。
 酸っぱい葡萄ではダメなのだ。食べてみて、それが本当にすっぱくて気に食わないことが確認できるまでは、欲しくないものを理解するのは難しい。

 つまり、幸せになりたいのなら、人間をハックする考え方を利用したほうが有利である。これがこの世界の事実であろう。
 もし、それでも人間をハックする行為がズルいものに見えてしまうのなら、もはや、そう感じてしまう自分すらを、ハックしてしまうことをオススメする。

 少なくとも、ぼくはそう考える。人間は、自分の考え方すらもハックすることが出来るのだ。
 そして、考え方をハックするという行為は、吃音治療などの分野では自然に行われていることでもある。
 どもることは大したことではない、どもってもいいじゃないか、治らなくてもやりたいことをやろう・・・こんな考え方を身につけることで、
 結果として吃音が解消されるケースもあるとのことだ。

 以前の記事でも書いたが、幸福というのは、追えば逃げていくものである。
 ぼくは人間として、人間独自の武器をせいいっぱい活用して、幸せに生きたいと願っている。
 幸せは直接もとめても手に入らないものである。幸福をハックすることで、次にやるべきことが見えてくる。
 だから、ぼくはこれからも自分をハックする。