能力とは小さなスキルの積み重ねである

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 来年度の新入社員に向けて少しだけ話をする機会があった。
 IT業界の登竜門である基本情報技術者試験に受かった先達として、後輩から定番の質問を受けた。
 「どう勉強すれば合格できますか?」
 しかし、僕はつい先ほど彼に伝えたばかりだ。キタミ式(リンク)の教科書を読んで、IPAが無料公開している過去問(リンク)を2〜3年ぶん解いてみるといいよ、と。

どうすれば〜〜できるようになるか、という質問の意図

 どんな試験でも勉強でも必ずと言っていいほど、この質問が出てくる。
 「どうすれば出来るようになりますか?」

 この質問に言葉を補うなら、こうなるのではないか。
 「どうすれば、努力することなく出来るようになれるのかを、説得力のある内容で、僕にもわかりやすく教えて下さい」

 要は、努力するのを嫌がっているのだ。
 地道な努力の積み重ねが大きな効果を発揮するだろうという事実から目を背け、何かラクな方法がないかを探している。

 このような例は枚挙に暇がない。
 voicyで聞いた話。森拓郎氏が質問に答えているとき、今まさに答えた内容と同じことを質問されたという。
 これは読解力がないのではなく、ただ甘えているのではないか。

 明快な事実だが、努力を積み重ねないことには、一定以上の成果を出すことは出来ない。
 もしそれだけの努力を払うだけの価値がないと思うなら、努力しなければいい。それだけのことである。

「普通に生きる」スキルは積み重ねの成果である

 日本では同調圧力が強く、どこでも「普通に過ごす」スキルが求められている。
 そして、「普通」の基準は、年齢や環境によって決まってくるのである。

 大人であれば、朝に自力で起きること、元気よく出社すること、ある程度マジメに仕事をこなすこと、日常会話をつつがなくこなすこと、などの行為は当然のものとされる。
 しかし、それらのスキルはどうやって身につけたのだろうか?⚫太字
 長い時間をかけて、出来るものから、必要なものから少しずつ取得していったはずだ。人によっては、起きるのに苦労しない人もいれば、起きるだけで心身に強い負担がかかる人もいる。

「やる気がない」のはどうでもいい

 人間は元来、長期的な視野に立って何かを継続することが酷く苦手である。
 しかし、特に資本主義の世の中では、反野生的な積み重ねがモノを言う。
 やる気がないのは、ある意味で当たり前なのだ。
 問題なのはやる気がないことではなく、やる気がない事実に拘泥することである。

 考えるべきは「どうしたらやる気が出るか」ではなく、
 「どうしたら続けられるのか」である。
 そして、それを考え続けると、続けるためのスキルが身についてくるのである。

 人間は、物事の考え方まで訓練することが出来る。淡々と努力を注ぎ込み続けることぐらい、出来ないことではない。
 ただ、もちろん簡単ではない。

具体的にどうするか

 ざっと挙げてみると。
ー努力を数値化して、目視確認できるようにする
ー努力を細かく区切り、達成感を味わいやすくする
ー自分のメンタルを観察して、どのやり方が合っているか模索する

 努力を数値化するのは、その人が偉いからではない。
 むしろ逆、そうでもしないと続けられないからである。
 僕の場合、筋トレの簡単な記録を作っている。それは、日々達成感を味合わせるため、空欄があることに恐怖する心を忘れないようにするためだ。

 考え方の芯は、どうしたら続けられるか、成果が出るのか、望ましい自分でいられそうなのか、じっくり考えてみることにある。
 全ての行動はそこから派生する、そう思えてならないし、
 芯がそこになければ、無理やり自分を動機付けるのは大変なコストがかかる。
 努力は省エネのためにある。