生き物は快楽に抗えないのか?

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 「人間は快楽の奴隷に過ぎないのだろうか?」という問いに向き合った本がこれだ。

快感回路---なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか (河出文庫)

快感回路---なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか (河出文庫)

 人間とはどんな生き物なのか、偏見を排して考えていこう。

快感は物理的に得ることが出来る

 快楽物質であるドーパミンが脳のどのあたりで生産されるのかは、実は既に明らかになっている。脳の正中線上にある中隔がそれである。
 さあ、興味深くも恐ろしい研究の紹介に入ろう。
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 マウスの脳には電極が埋め込まれている。マウスがレバーを引くと、脳内の電極に微弱な電気刺激が走る仕組みだ。
 お察しの通り、この電気刺激によって、物理的に快楽を生み出すことが出来るわけだ。
 その実験の結果は……

その後行われた一連の実験から、ラットは食べ物や水以上に、快感回路の刺激を選ぶことが判明した(空腹でも、喉が渇いていても、レバーを押し続けた)。自分の脳を刺激しているオスは、近くに発情期のメスがいても無視したし、レバーにたどり着くまでに足に電気ショックを受ける場所があっても、そこを何度でも踏み越えてレバーのところまで行った。子どもを産んだばかりのメスのラットは、赤ん坊を放置してレバーを押し続けた。(中略)

そして人間も……

 この恐ろしい実験が、人間に対しても行われた。男性の例も、そして女性の例も挙げられている。
 そして、彼らもラット同様に、電気刺激に夢中になってしまったのだ。

患者は、最も多いときには一日中、自分の健康も家族のことも気に掛けずに自分を刺激し続けた。刺激の強度調整ダイヤルを回す指先には慢性の潰瘍ができ、刺激の強度を高めようと、装置をいじくり回すこともたびたびだった。ときには、装置を遠ざけてくれと家族に懇願し、取り上げられてしばらくすると必ず、返してくれと要求した。

 注意しておきたいのは、この研究結果が全てではない、ということだ。被験者の数も少ないし、実験の条件も殆ど統制されていない。
 そして、このような現在の倫理にもとる研究は、もう行われることはないであろうし、それを望む人も殆どいないだろう。
 それでも、このショッキングな結果から、人間とは何か、という問いを考えないではいられない。

人間は快楽の奴隷なのか?

 強すぎる快楽を前に抗うことが難しい、というのはやはり事実であろう。
 だが、快楽にただただ屈するしかない、というのも極端な考え方である。
 麻薬によって快楽を得られることがわかっていても、その快楽によって身を亡ぼすとか、人間としての尊厳がなくなるとか、色々な理由で、人はそれを拒む。
 人間には快楽よりも、求めて止まないものがあるのではないか。

人間が何よりも求めているのは「意味」である

生きる意味を求めてしまうのが、人間の原罪である

 これは尊敬する友人の言葉だ。人間の本質を鋭く突いている、そう思えてならない。
 意味によって生かされた有名人と言えば、アウシュビッツを生き抜いたヴィクトール・エミール・フランクルが想起される。
 では、意味とはなにか。それは、ある種の所属意識だと言えるのではないか。

 人間には、何か大きなものの一部でありたいという欲望があるという。たとえば人間は、国や部族という組織の構成員たることを実感できるだけではなく、地球や世界という抽象的な概念にすら所属することが出来るのだ。
 フランクル氏がアウシュビッツという困難な環境に意味を見出し、本を書き上げるに至ったことも、何らかの大いなるものに包まれることによって実感できる「意味」に、強く惹かれたからではなかろうか。

結局、人間を衝き動かすものは何なのか

 人間は、快楽によって方向性を決定づけられている、という考え方には、かなりの説得力がある。
 快楽を抜きにして人間の営みを捉えると、食事も睡眠も性欲ですらも、無味乾燥な行為の連続に見えてこないだろうか。
 (因みに、冒頭に紹介した「快感回路」では、脳神経の繋がりを手掛かりに、人間は快感と何を結び付けるのかを考察している箇所がある。とても興味深い。)

 快楽という仕組みの持つ影響力の強さから目を背けるのは正しい態度ではないだろう。しかし一方で、人間は快楽の奴隷だという考え方にも納得しがたい。 
 そして、人間は強烈な快楽を前にして、人間性を保っていられるほど強靭であるというのも違和感がある。
 人間は快楽を作り出す技術を手に入れたが、それでもなお多くの人間が快楽におぼれることを選ばない。

 人間が最後の拠り所にするのは、意味である。ときには、その意味とやらによって、当人の生死が左右されるほどに。
 僕はそれを意味と呼ぶが、人によっては異なる呼称があるだろう。
 僕がそれを意味と呼ぶのは、常にアタマの中で、こう繰り返されるからだ。「それに何の意味があるの?」と。
 大事なのは、自分にとって生々しく迫ってくる問いや不安、それにどう応えていくのかだと思う。
 とても具体的で現実的で切実なもの、それをきちんと視界に捉えている人は、僕が「意味」と呼ぶものと存分に向き合っている。そんな気がする。