誠実さの定義の違いがもたらすもの

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自分が、つい他人に期待する「誠実さ」というものがあり、それは往々にして満たされることは無い。
だから僕は勝手に他の人を嫌いになるが、それは他の人からすれば下らないことで、それ故に共感されることはない。それ自体は一向に構わないけれども。

僕が期待する誠実さとは、人間は所詮、自分の望むものを相手に強いているに過ぎないこと、を自覚すること、である。
だから一番嫌いな台詞は「あなたのためを思って言っているのに」である。
人間が構築した倫理というのは、当たり前だが人間にとって生きやすい社会を目指した結果の副産物である。
つまり倫理というのは、その性質上、人間の自分勝手さを含んでいる。地球が、環境が、ほかの生物が、これらは倫理における主語ではないのだ。

人間が環境を守るのは、人間が勝手にやっていることであり、本質的には自己満足である。
環境を守る行動を支える最大の理由は、将来にわたって我々人類がより長く繁栄すること、であるに過ぎない。
ここが面白いところなのだが、大多数の人間はどうも、自分が死んだ後の世界、という存在しないものを大事にする傾向がある。
だから長いスパンでの地球環境というものを勝手に考え出し、それを守ろうとする。

僕が変人であるのは、ただ他の人と期待する誠実さの質がやや異なることに由来する。
人間が自分勝手な生き物であり、その自分勝手さに鈍感なまま、あたかも自分たちが正しいことを言っていると錯覚している。
その錯覚の構造の気持ち悪さに気付かない様子が、個人的に気に食わないというだけの話だ。
しかし、この点は生き方に結構な違いを与えるのだ。

錯覚している人間は、自分たちが正しいと信じて疑わないので、それを周りに強いる。
それを錯覚であると思う僕ら変人は、そんな自分勝手な理屈を周囲に強要するという恥知らずな行為を嫌うから、そもそも周りに強要することがない。
強要しないだけだが、その倫理に正当性がないことが明らかになると、その倫理とやらに従う気が失せるのだ。
また、強要する行為を嫌うということは、他人に期待しないということをも意味する。
自分勝手な生き物であると自覚があるから、生きる上での主語が、自分だけになる。周りの生き物は生きる理由にも、死ぬ理由にも、死なない理由にもならない。
はれて、周りから見た「自分勝手な人間」が誕生するという仕組みだ。

今回は自分の思うところを、大した推敲もせず語った。思索として非常に浅はかで論理が誤っているところもあるだろう。

以上の内容を踏まえても、僕は周囲の倫理観を根っこから否定するわけでもないし、周囲に阿る生き方をすることには変わりない。
僕も人間一般の例に漏れず、幸福の定義や条件に違いはないからだ。中身が違っていても、人間という生物が目指す個人的な在り方に然したる違いはなく、結果として社会はある程度上手く回っていく。
個人的には、この点においても、人間とは何とも気持ち悪い生き物であるかと思わざるを得ない。

僕は僕の勝手で生きる。意味なんてないし、なくてもいい。何かしら他の人にとって気付きになれば幸いだし、ならなくてもそれだけのことである。