理解するとは、学ぶとは、どういうことか?~地球の大きさの測り方~

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友人から以下の記事について、式の意味がわかりにくい、と相談を受け、回答したときの話。
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詳細は記事の方を読んでもらうとして、式の個所をピックアップしてみる。
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軽く補足をしておくと、

  • 2πr = 地球の周りの長さ(地球の半径を r としたとき)
  • 7.2 = A地点とB地点、および地球の中心点を結んだ三角形が作る、最小の角度
  • 787 = A地点とB地点との距離(単位:km)

※A地点=シエネの塔、B地点=アレクサンドリアの塔

友人の質問に対する自分の回答は、以下の通り。

 地球の中央に三角形が食い込んでると想定した場合の、三角形の角度が7.2 度のとき、その三角形の対辺の長さが787キロあるから、
 それを360度まで増やしていったときの値(つまり787 × ( 360 / 7.2 ) = 787 × 50)が、地球の周りの長さになるよね。

それに対する友人の反応が以下。

 理屈は理解できたが、なぜ、この式になるのかがわからない
 なぜ、360度ぶんの1周ぶんの円周と、円弧の長さと7.2度の比率が一緒になるのか?
 あ、これ相似だから対応する角度と辺の比がイコールになってるのか?

ここに潜んでいる「マズさ」が、今回の記事の主題。

法則を「理解した」状態とは?

結論から先に言うと、理屈に対して「なに当たり前のこと言ってんの?」と思えるのが理想ではないか、という話。
ある状況に対して、「これは法則Aが適用できるから、結論Bが得られるな」と考えているのを、自分は「理解している」とは思えないのだ。
今回とりあげた、「相似」を用いて、NGな「理解像」を考えてみる。

 2つの辺の比と、その間の角度が等しいとき、相似が成立している。

学校で習う定番の型だが、この文言が持つ気持ち悪さ、もしくは馬鹿らしさみたいなものが伝わるだろうか。
この言い方は、人間の理解の仕方には沿っていないのだ。人間がモノを見るときに、こういう見方をすることは極めて不自然だと思わないだろうか?

人間が法則を適用するときっていうのは、もっと自然に「当たり前でしょ」という感覚が伴っているものだ。
例えば、下の図を見てもらいたい。

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この図を見て、直観的に「上と下は同じ形っぽいな」と思わないだろうか。

次はコレを見てもらいたい。
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上図の三角形を大きくしたらこうなりそうだなーとか、大きくしただけだから形は一緒だよなーとか、
そういう感覚は、自然に、わいて来ないだろうか?
法則っていうのは、所詮、その感覚の延長線上にあるものでしかなくて、この感覚を言い表すのに、世の中では「相似」という言い方がよく使われる、そういった感覚が理想的な「理解」ではないか。

「理解する」とは?

教え方

教育場面では、直観ではなくて、言葉にして説明することがよく求められる。
しかし、まだ感覚で掴めていないものを言葉にするなんて愚の骨頂だ。
まだ自分の中にないものを、どうやって言葉で表現するというのだろうか?
それは地に足のついていない、空々しい言葉なのだ。
先ほどのような図を見て、上と下の三角形の大きさや形というものが感覚としてわかっていて、「何を当たり前のことを言ってんだコイツは」と思えているなら、それは自分の中にちゃんと理解が形成されていることなのだ。

つまり。理解という行為に必要なのは、何よりも先に感覚なのだ。「説明できないけど、わかった」のステップを踏んでないのなら、子供に対して、親や教師たちは、説明することを求めるべきではない。

学び方

これには逆のことも言える。特に数学など、何かの法則を理解する必要があるときには、理屈から入ってはダメなのだ。
例えば、2進数と10進数の変換について学んでいたとする。(筆者はITエンジニアなので)
ダメなのは、「こういうやり方を使えば、理屈はわからないけど変換できるらしい」という学び方だ。
勿論、「試験に受かるためだけに勉強してるだけだし」という言い訳はあるだろうが、理解にとっては邪魔でしかない。
なぜ、この法則が通じるんだろうか?と、興味を持って学ぶことなしに、何かが身につくことはない。

「いやいや、そんなの毎回やってたら時間の無駄でしょ」という人の意見もある程度はわかるが、
僕は、少しずつ何かを身に着けていった先に、色んな物事が結びついて見えてくる自分がいると信じているのだ。
こればっかりはやってみないとわかるもんじゃないが、少なくとも僕は、そういう生き方を楽しんでいる。
学びは最高の娯楽だと思う。楽しいから興味を持って学ぶのだ。
ただ、本当に興味が持てない分野だったら、その分野からは素直にリタイアすべきだと思う。

おわりに

はあちゅう氏のエッセイについて書いたときにも触れたが、自分は考えることを楽しむ人間だから、こういった分野にはある程度の信念がある。
結局その人の楽しみ方だと思う。数学大嫌い!という人がいても、別に全然いいと思う。
楽しみたかったら、理解したかったら、こうしてみたらどうかしら、という、ただそれだけの話だ。