世界の見方を変えることの楽しさ
自分の好きなことは何だろうか?
多くの人がぶつかって悩むこの問いに対して、自分は大学院時代、1つの解を見つけた。
それは、知識を得ることで自分の見方が更新される瞬間だった。
そんな中、偶然読んだエッセイに惹かれる文言が多数あったので、今日はこれをテーマにして、僕の想像の広がりを語っていく。
何故なら、これが僕の好きなことだからだ。いつも出来るわけでもないし、いつでも楽しめるわけではないけど、この行為は僕にとって数少ない、何の後悔もなく楽しめる行為なのだ。
今回読んでいるのは、はあちゅう氏のこのエッセイ。
- 作者: はあちゅう
- 出版社/メーカー: 大和書房
- 発売日: 2017/02/17
- メディア: 単行本
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人の好き嫌いって、割とその人が使う言葉で決まるよなぁ。
賢く見える人の言葉に共通しているのは、語彙力と、組み合わせの独創性。
語彙力があるということは物事を多角的に見る能力があることだし、
独創的な言葉を使う人は、やっぱり、人の考えないことを考えつく。 (19p)
昔、ある年配の女性に、嫉妬に関する4つの類義語の使い分けを尋ねられたことがある。
それは自分にとっては全て異なる意味だったから、それを何気なく答えたのだが、やけに反応が良かったことを覚えている。
頭が良いとかいうことではなく、言葉の使い方で人を好きになるというのは、けっこう理解できる感覚なのだ。言葉が豊富であるということは、現実の切り取り方や意味付けが多様であるということで、より意味深い見方が出来ることになる。
本棚に居場所をつくってもらえることは、その人の心に居場所をつくってもらえることに等しいから、
私はちゃんと本棚に残れる作品をつくりたい。(21p)
情報発信者であり、自らも情報を沢山切り捨てている人ならではの発想だなあと。多くの人が発信する世の中ではありふれた考えではあるかもしれないが。
最近、筋トレを習慣にしていることもあって、一日の時間というのが如何に短いのかを自覚するのだ。「やらなきゃ」ではなく「やることになってるんで」と思ったら、どうすればその時間を捻出できるのか考えざるを得ない。
今はまだ若いから睡眠時間に多少影響を与えてもやっていけるが、やることとやらないことに対してもっとシビアにならないとなあ。
ダラダラする時間には大抵締め切りを設けることにしてから、無駄な過ごし方はだいぶ改善されたけど。やりたいことって本当に出来ないものなんだな。
一方で、やりたいことには素直になることにしたっていうのもある。これは理屈を以てして自分の考え方を修正したのだが、別にゲームをすることって意味がないわけじゃないなって思うようにした。
これもそのうち何処かで記事にする予定。考えることに興味があるからね、自分の頭の中なんて格好のネタだし、いい娯楽なんだよなあ。
調子が悪いことのことと、あざとい文章(タイトル 22p)
この節の全体に対して感じたので、引用が適当になった。部分が光っているわけじゃなくて、それ全体が面白く感じられたから、しょうがない。
さて、はあちゅうの言葉に惹かれているのは、発想どうしが絡み合って新しい側面を見せる時の、あの知的興奮らしき何か、への憧れを、はあちゅう自身も持っているのではないかと思わせるところなのかもしれない。
自分が好きなのは知識をつけることではなくて、それによって自分の頭の中で新しい回路がピピーン!と出来たようなあの感覚なのだ。
ここで、自分の調子の悪い時とあざとい文章という二つのものに、彼女独自の発見をしてくれている。
こうなるとワクワクするのだ。自分の知らなかった一面が世の中にあることを知らしめてくれる、そういった楽しさが。
だとすれば、僕がやってる「学び」は正しくないのかもしれない。いや、正確に言えば、僕に合っていないのかもしれない。
僕にとって、好きな瞬間をより多く感じるためには、同じ分野を深めるような「勉強」ではなく、別の角度から世の中を掘り返して見ることのほうが有効なのだろう。
アリの巣のように、別の穴から、深いところでほかの穴と繋がったときのような、そんな喜び。わかるかな……。
でも往々に、純粋な気持ちで文章が読めないときは自分が腐っているときなのです。許して。 (24p)
僕の場合は、死んだ目でゲームやってる時が一番ダメかな。ゲーム自体が楽しみではなくて、作業に成り果てているとき。目的が娯楽ではなくなるとき。
RPGがそこそこ好きでね、長時間ハマってしまうんだよね。自分が楽しいものを邪魔されるの、子供のころから物凄く嫌だったし。
でもアレはね、レベル上げたり、ストーリー薦めたり、キャラの強い装備を手に入れたり、結構気にしながら遊んでるからね、気が済むってことが殆ど起こらないんだよね。
夢中で楽しめるっていう意味ではとてもいいモノなんだけど、僕にとっては終わりどころがわからない難しい娯楽ではある。
ゲーム理論ってあるじゃん。アレが強いんだわ。話の続きが気になっちゃう。ゲームの中の世界を救いたくなるし、困ってるキャラがいたら助けたくなる。
だから、気持ちよく遊んでいるようでいて、途中から義務になってたりするっていうね。
生活全般のこと、楽しい、のではなく、楽しんで、やっている。 (25p)
生活全般を楽しんでやっている、という文言には、共感、いや納得する。
なぜなら、それは「生きる上で回避しようがないもの」だから、「楽しんだ方が人生おトクよ」と思うのだ。
楽しめないからクソ、という発想は自らを不幸にする。どうしたら楽しめるかな、というのは自分をより幸福にする。
それだけのシンプルなことだけど、この人もそう考えているんじゃないのかな、と思わせる、いい文章だ。
たまに刺激とか人との関わりがないと、へろんとしてしまってダメになるのだけど、
基本的には、淡々と、ひきこもってお仕事をするのが好きで、
一日一日、リズムを刻んで生きる毎日が、今ではとても大好き。 (26p)
わかる。というかあなたたちはそうじゃないと思ってたけど、そういうのはあるのね。(インフルエンサーは昼過ぎに起きる人が多い印象だから、リズムの刻み方にあまり関心がないのかなと思ってた。)
俺は朝に起きれないと自分のことが嫌いになるから、今はあまり苦労なく起きられる自分で良かったと思うし、
時間になったら特定の行動を始めることが出来る自分も、頑張ったなぁと思えて、とても好き。
筋トレはね、やりたいからじゃなく、やることになってるからやる、みたいな感覚でいる。
でもやってみるとそこそこ楽しめるのね。ちゃんと記録を残すと、俺の頑張りがそこに現れるの。あの数字の列挙がね、案外嬉しいものなんよ。
読みながら考えたこと
自分の発想が繋がる瞬間っていうのは、やっぱり勉強の瞬間ではなく、ほかの人のエッセイのほうかもしれない。
この人のエッセイは、俺にとってとても良いものだ。発想をどんどん出させてくれる。何でだろうな、はあちゅう故なのか、エッセイという文章スタイルがそうさせるのかはわからないけど。
僕が好きなのは、つい発信したくなるのは、こういう瞬間なんだよね。発想がどんどん出てきて、一つ一つ頭の中で向き合って楽しむっていう、その充実した時間に対して、俺は心から楽しめる。
さて、実はこの本、まだ27ページまでしか読んでいないのだ。
つまり、自分にとって、それだけ心に引っかかるものが多かった、ということ。だからこの本は、自分が良い調子の良いときに、ゆっくり、大切に、読んでいくつもりだ。
おわり
今回は毛色が違う内容だったけど、こっちの方が性に合ってる自覚がある。文章を書くのが好きというわけではなく、考えるのが好きなのだ。
やっぱり最大の関心ごとである自分に関することを考えることは、自分にとっては欠かせない。というよりも、気付いたらやっていること、なのだ。